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老いという終末期における医療・ケアを考える [雑記]

今回は「高齢者の範疇」(特に精神科的に)に限局した話
としてのエントリです

完全に個人の見解です
個人のblogなんだから当然個人の意見として記載
命についてのイチ個人の意見なので
そこは誤解なくよろしくお願いします

そしてセンシティブな内容なので長いです
先に謝っておきますごめんなさい

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人はいつまで生きるかはわからないけど
分かっていることは「生きてるからには死ぬ」
ってことです

まずアドバンスケアプランニングについて
知っていただきたい


最近は後期高齢者がめちゃくちゃ増えて
高齢社会どころか超高齢社会なわけですけど
「98才で食欲不振」て入院する人もたくさんいます
98まで高齢じゃなくても75才以上で
「食べられない」と入院する人
又は「別の理由で入院後に食べられなくなった」人

食べられない理由としては
口腔内の問題
嚥下機能の問題
消化機能の問題
脳機能の問題
認知機能の問題
精神的な問題
などが上げられますが
今回ここで書くのは
高齢者でありさらに認知機能の問題や
精神的な問題がある場合です


若い人が器質的な病気になった場合は
(若いって70ぐらいまで若い定義)
そのための手術があったり短期的な
胃管の留置があったりするし
治療のための中心静脈のポートが留置されたりする

けど、80過ぎて
「食べられない」という主訴に対して
「食べないと死んじゃうから胃管を入れましょう」
と胃管を挿入することについて
そしてこれを「患者は希望していない」
又は「認知機能の低下により希望の有無の
確認が取れない」場合

それはもうなんというか、老化、老衰
それしか言いようがないことだと私は思うわけです

胃管を入れて薬がちゃんと投与できるように
なったのに、それでも食欲は出てこないとか
その間に認知症も進んだりすることで
嚥下機能もまた低下します

だって年を取ったら白髪になったり皺が増えたり
シミが増えたりすることは「仕方ない」ことで
消化機能も低下して「焼肉は重い」とか
普通じゃないですか?
それをパンシ○ン飲んで無理やり食べるって
昭和の営業マンぐらいしか知らない

でも食事においての老化は許してもらえないで
入院中「全部食べてください」
「もっと食べてください」
「食べないと点滴ですよ」
「お鼻から管いれて栄養剤ですよ」

ほとんど脅迫


「経口摂取できない薬を
確実に胃に投与することができれば、
薬が効いてくれば、また経口投与できる」
とか、いわゆる
「治療の過程のうちの一時的なもの」なら
良いと思うんですけど
高齢者についてのみ言及するなら
「それをやって抜ける見込みがあるのかどうか」
を十分考慮しないまま「とりあえず留置」
となる人が多い


そもそも高齢者が入院する、って
本人にはすごくストレスの大きいことです
慣れていた環境が急に変化したことに
ついていけないのが老いというもの

せん妄といって、混乱してしまったり
認知機能がさらに低下したりする

そんな中で「食べられないから」って
胃管を入れたら「自分で間違って抜いちゃうと
肺炎になって危険ですので拘束します」
って身体拘束されて

身体拘束で安静を強いられたことに関連して
また肺炎になったり無気肺になったりするから、
「頑張って車椅子に乗りましょう」

本人が「もうやめて」って言っても
「はい頑張って」「頑張ってください」
「頑張り時ですよ」

いやもう高度経済成長の日本を生きてきて
ここまで十分頑張ったのに
80・90にもなって「嫌だ」ということについて
まだ頑張らされて寝かせてもらえない
休ませてもらえない

嫌だということを「そういわずに」と
やらせることについて
それを提供する側としては
いつもすごく疑問とか葛藤がある


死ぬ=良くない
この文化は根強い

この概念が根底にあって
医師が電話で家族に「ご本人は
やっぱりまだ食べられなくて薬も飲めません
まずは確実に薬を投与できるように
胃管を入れて、栄養もそこから投与する
必要がありますが、どうしましょうか」
という連絡をする

連絡を受けた家族は「はいお願いします」
これ一択

理由としてはまず
「`生きているからには死ぬ'とは思っていない」
「老いというものを理解していない」
という前提があって、
「具体的にどういう状態かは知らない」というのが大きい
そして
「食べられないから入院してるんだもの」
「食べられないことは老いではなく病気なんだもの」
「先生が必要だって言うんだもの」
「やめてください、入れないでいいです
って言ったら退院させられるかもしれないし」


ずっと嫌だ嫌だと言い続けている人や
嫌と言わないけど引っこ抜く
(つまり不快に思っている)人を
「引っこ抜くから」と拘束して
その人が嫌だという認識を許すことなく
永続的に強制的に栄養を投与する

それはまるで強制給餌して
フォアグラを育てている光景と
同じように思える

(フォアグラがどのようにできるか
リンクを貼る勇気はないので
皆さん是非自分で検索して欲しい)

胃管挿入を選択する家族は
そこまで考えているだろうか
情報を取っているだろうか
多分知らないしそんな想像する材料がない

医師は嘘はついていないし
本当のことを言っている、けど
素人の家族が正しく理解出来るには
材料が不十分、というところ


胃管からの栄養摂取は
患者が自分で選択する治療の1つなら良い治療だし
意識がなくて選択云々でなくても、一時的なら良い治療
口腔内その他の手術をした人なんかも普通に使うし
絶食期間はなるべく短い方が良い

けど、これは「治癒過程の1つとしてならね」

今後食べられる見込みがない、「食べたくない
という意思表示をしている人」に
「それはダメです」と無理やり管を入れて
それを心臓が止まるまで、死ぬまで続けることが
良いことなのだろうか

しつこいけど治癒過程の1つ、として
「投与をしている間に訓練をして食べられるようになる」
とか、「治療を受け入れられる」というなら良いこと
だろうと思う


本人は「もういいんだ、いやだ」
と言うことを「精神的に病気の人が言うことだから
ご本人の言うことはアテにならないのでご家族は」
って言うと家族は「お願いします」って
胃ろうを作る

けど家で見るだけのスキルを身に着ける気はなくて
「娘がやってくれるから私は帰ってきて欲しい」
「いやお母さん私も無理だよ」

じゃあ施設、ってまた環境が変わる


人っていつまで生かされ続けるんだろう
本人の意思はどこに反映されているんだろう


そしてここまで一貫しているのは本人は「嫌だ」
と言っている、または「治療として理解して
受け入れていない」ということ

本人が嫌だと言うのが病気のせいにしろ
なににしろ、本人の今の気持ちとしては「嫌」
これを「はいはい、あなた精神的に病気だから」
「認知症だから理解できてないから」と流す行為

「看護師側でなんとか10割食べさせてください」
と言ってくる医師
「わかりました」って食べさせようとする看護師
「嫌、イヤ」って口を押えて拒否する患者
「食べて下さい、食べて下さい」ってしつこい看護師

つらい


食べたいけど時間が掛かる、という人に
「はい時間ですので終了でーす」と終わりにする
というのはダメだけど、
「食べたくない」と言う人のご飯を
「そうですか、じゃあ下げましょうね」と
下げるのがなぜダメなんだろうか

医療倫理の4原則としては
自律尊重:自律的な患者の意思決定を選択
無危害:危害を及ぼすのを避ける
善行:患者に利益をもたらせ
正義:利益と負担を公平に分配せよ

これに当てはめて考える時に
一番大事に話しあう軸は何か、というのが
「患者にとって」の話であるべきで
「家族にとって」を軸にするからおかしくなる

でもここは本当に難しい
患者軸で考えると完全に自律尊重が侵害され
嫌だというのに食べさせられるというのは
危害を加えられて善行とホド遠いけど
食事を摂らないことでの栄養状態の悪化は
皮膚損傷や褥瘡形成や体力低下をきたして
褥瘡は感染症とか体力低下はやっぱり肺炎とか
そうなってくると危害から守るために
しっかり食べる必要はあるから善行だ

肺合併症をきたすリスクや血栓が飛んで
脳梗塞や肺梗塞などの本当に致死的な合併症を
きたすことを考えると危害を避けるためには
頑張って車椅子だって乗らなくてはいけないし


そして「本人に判断能力があるのかどうか」
ここがキモとなるので
「本人がやめてと言ったから自律尊重で」
というわけにいかない

だがしかし致死的な合併症もまた生きること
とも思う(完全に個人的な見解)
それで死に至った、となっても
本人の不快とか年齢のこととか
回復する見込みが有るか無いかとか
その辺を考えて「死なない人間はいない」なら
最期までどうやって生きたいか、ということを
考えたら良いのではないか…と思うわけです

例として
88才の認知症患者として(2019年の平均寿命
女性87.45歳、男性は81.41歳からの仮の設定とする)
本人が入院後に「食べたくない」「色々しないで」
と言う中で、
肺炎にならないように頑張って車椅子に乗ることはなく
食べられなくなったね→補液してみて改善するかね
→しないね→このままなだらかに低下して
穏やかに終末期を過ごそう→死 
という選択 

(私はセルフネグレクトと言われようが
この例のようが良い
食べたくないことを病気として
病院に連れて行かれたとしても
治療は受けたくない
孤独死は周りに迷惑がかかるから
そういう意味で連れて行かれるのはOK)


誰のための入院なのか?
誰の意思を尊重するべきなのか?

食べない・食べられないことから
胃管を入れることについて現在の本人が
「止めて」と言っているのにそれを認めないのは
老いを許さないということだろうか?

「全量食べてください」「食べないと胃管です」
これってそういうことではないのだろうか?

だって体力の低下もエネルギーの消費量の低下も
摂取量の低下も、当然の老いなのに
「食べないのはおかしい」って治療とされて
食べないなら胃管、って
老いを終末期として認めてもらえないのだろうか

そして胃管を入れられて拘束されて
老化によって消化管が動きが悪いと
また薬を投与されてお腹を動かされて
「歩いて」「せめて車椅子乗って」って
息切れしてるのに「まだまだ頑張って!」
車椅子でトイレに連れて行かれる

「拘束してないと隙あらば抜こうとする」って
短時間しか拘束を外せない状態になる
そりゃ患者にとって嫌なことをし続けるんだから
拘束し続ける結果になってしまう

患者の人権はどこにあるんだろうと思うわけです

患者が望んでいるなら良いんです
「1日でも長くベストの状態で生きたい」人から
「もういいです、ラクに生きたい」人もいるわけです
(今は本人の考えとして聞くことはできないけど
これまでの本人を考えると「こう考えるだろう」
というのがあるハズ)


人生の選択肢は幅広くあるべき

でも「生きます」「頑張ります」という選択は
すごく支援されるけど
「もういいです」はなかなか選ばせてもらえない

そこに「患者は判断能力があるのか」と問われると
認知症やうつ病や高次脳機能障害で
「快・不快は訴えられるけど判断としては…」
という状況だと本当に「じゃあキーパーソンの考えを」
ってなる


ハイじゃあ家族の方~~~
急変のリスクもありますので併せて説明します

キーパーソンの家族が
「急に入院したからわからない」
「病院にいるからには死なないですよね」
「本人の年金がないと困るから」 

え…なんか最後の人すごい理由出てきちゃった

回答の文言としては様々あるけど
だいたいは「頑張ってほしい」という分布
もしも心停止となった時、なんて
「そんなこと急に言われてもわからない」
ってなることがほとんど


人間、生きてるからには死ぬんです
動物なんだから、生きてるんだから

特に高齢者はこれまで指摘されてこなかった病気が
入院後に分かったり解剖で初めて分かったりする
ことも多い

(人間ドックを通過して入院してくるわけではないから
これは見落とし云々の話ではない)

それを「どう生きるか」「その人が大事にしてきたもの」
というのを答えられない家族は多い
「そんなの言われてもわかりません」

家族ってなんなんだ

「そういう話今まで全然してこなかった」

「私はお父さんが死ぬのなんてイヤ」
そら嫌だろう、だけどここでの論点・考えて欲しいのは
「本人はどうしたいと思うか」であって
家族が良いか嫌かを聞いているわけではない
(参考程度には聞くけど)

「生きる」、さらに「よく生きる」って何か
「本人が大事にしていること」
こうなったらこういう選択を
するだろうなあと相手のことを理解する力
選択する責任に重みを感じながら決定できる力

これを何も考えずに
「わからない」と丸投げするのは
あまりに本人が気の毒なわけです

でもなぜ家族が「わからない」「決められない」
のかと言うと、「話し合ってないから」
「人となりを理解していないから」
(家族なのにー。っていう人は
実際話し合ってみてください、結構ズレてるから)


アドバンスケアプランニングについて
どうか皆様で話し合ってください
「まだ遠い先のこと」と思わずに
毎年毎年、これまで大切にしてきたこと、
今現在の意思を確認しあい、家族で共有してください
何年かに1度の帰省の際も意思確認として
場面を有効活用してください

その人が患者となった時に
その人らしさを大切にして
その人の意思に沿った、その人にとっての質
というのを考えてあげてください
自分軸でなく、家族その人の軸です
(逆に、自分が患者となった時には
どうして欲しいか、という意思表示もする)

いざとなったら決定に迷うことだってある
その時は「先生の親御さんや高齢のご家族の
場合に置き換えて考えたらそれは選択しますか」
と聞いてみてください

人生の最終段階における医療やケアの提供について
「本人の意思が尊重される」ように
家族は慎重に検討していただきたい

「あの時こうしておけばよかった」
「あんたが決めたんだからね、私は反対だった」
なんて後から家族の間で揉めることがないよう
サインした人だけが決定責任を
重く背負わされることがないよう
家族で「これで良かったんだよね」と納得できるよう


生きる、ってそれだけ責任があるんです
「何にも考えてこなかった」ではなく
「どうやって生き抜くか」を各々が責任を持って
お互いに納得しながら生きていってほしい、
と思うこの頃です




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コメント 9

さる1号

98才で食欲不振で入院@@)
いやぁ、98才で食欲旺盛なのはそれはそれで怖いような^^;
食欲不振で入院って、それだけ生きてりゃもう十分じゃないかと思っちゃいます^^;
by さる1号 (2022-07-12 06:33) 

kou

経管栄養まで生きるのは自分的には拒否ですが、個人の意思よりも家族の事情でしょうね。
元職で病院の相談室から経管栄養の方の受け入れを打診されて苦慮した経験が多々あります。


by kou (2022-07-12 21:04) 

ryang

さる1号さん
そうですねー
98はまた稀ですが、85才以上でこのような主訴
での救急車での来院は本当に多かったですし
入院もたくさんありました
患者が「帰りたい」と言うのに家族は
「死ぬなんて嫌だ」と受け入れない
家族の気持ちは分かりますけど、誰のための入院
なのか、本当にやるせない気持ちになります
by ryang (2022-07-13 21:43) 

ryang

kouさん
家で看取る、というのはまだまだ少ないですね
何をもってして延命と言うのか、
「もし食べられなくなったら」「もし○○になったら」
「もし…」ある程度想定をしておくことと
その時の希望を表示しておくことは大事だなと
思います
何が患者にとって一番良いことなのか、というのを
家族が検討できるように支援したいものです
by ryang (2022-07-13 21:48) 

のらん

いや、ほんと、コレ、社会問題ですよね。。
私は、病院で管だらけで生きるのは、絶対にイヤ!!!
このことは、猫にも通じるワケで、野っぱらでずっと生きてきた猫を、年寄りになったからって捕まえて、見も知らぬ猫だらけのシェルター的なところに閉じ込めてしまう・・・保護という名の拘束が、ほんとうに、その子の猫生にとっていいことなのか。。
あぁ、私は、ぽっくり死にたいなぁ。どんな功徳を積めば、そういう死に方ができるのかなぁ。。
by のらん (2022-07-16 11:44) 

ryang

のらんさん
ほんと、動物として生きるということをどう捉えるか
いろんな価値観がありますから難しいですよね
やって良かった、になるようになれば良いですよね
by ryang (2022-07-26 00:58) 

mio

うちの祖父の場合。

同居していた父方の祖父は(本人には隠していたけど)肺がんで、見つかった時にもう80代半ばだったので積極的な治療はせずに・・・ってお医者さんの方針だったのね。年相応にちょっとボンヤリはしてたけど認知症ってほどじゃなくて、徐々に食が細くなるのを家族が心配して入院させようとしたんだけど「入院したら二度と帰ってこられないから絶対嫌だ」って本人が拒否したの。もうお漬物でご飯ちょこっとしか食べられなくなってるのにね。それでも家にいたかったみたい。最後は風呂場で動けなくなって緊急入院。本人の予想通り入院したら二度と生きて帰ってこられなくてそのまま病院で亡くなった。看護師さんがオムツを代えてくれてるのを偶然見ちゃったときに「人間の骨格標本みたい・・・」って思うぐらいやせこけた爺さんの下半身をみてビックリした。肺がんだったけど、とくに呼吸が苦しいとかそんな感じじゃなく、あれは老衰だったんだろうなぁと思う。実権は父が握っていた頃だったけど、祖父の意見は最後まで通った。きっと満足だったに違いないと思っているよ。(長文失礼)
by mio (2022-07-26 19:01) 

ryang

mioさん
お爺様の意志が尊重されて良かったですね
本当に、「本人にとっての質」というのは個人個人で
違いますから、価値観の確認とかすり合わせ
というのは大事ですよね
日本は医療が高度化して国民の期待というのも高まり
ましたが、「生き物は必ず死ぬ」という前提が
崩されている気もしています
自分自身生きる覚悟がないままだから
家族の死も受け入れられない、みたいな
多死社会を迎えた昨今、「よく生きる」をしっかりと
考えていく必要がありますが、死の話題というのは
やはり嫌がる文化があって、難しいです
by ryang (2022-07-26 21:01) 

とらんじすた

詳しくないのですが、終末医療と
その行方については、コメダ珈琲店
にてとある8月にあなたを思って、
悩んでいた事があります。
タブレットを持って水族館へ行き、
老衰による介護を含めた終末医療に
ついて悩んで今を生きている方を
ドキュメントで見た日もありますし、
明るい進歩あるのかそんなものという
ハードボイルドを若さで信じた日々も
ありますが、終末医療にみる日々の
変遷とはかなり興味深いものですね。
私個人は頭も良いので、悩みの中に
もあなたの幸せを祈って…
この歌を贈ります。
This is Love 宇多田ヒカル
失礼しました。
by とらんじすた (2022-10-25 15:56) 

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